重慶おもしろ街歩き

日中戦争における対重慶作戦

 日中戦争勃発により日本軍は南京→武漢と蔣介石を追いますが、蔣介石は重慶に遷都し抵抗を続けました。日本軍は武漢までは陸上部隊を派遣できましたが重慶まで進むことは出来ず空爆により蒋介石を降伏に導こうとしました。日本軍は1938年2月から1943年8月まで重慶を空爆します。

指揮系統

 そもそも重慶を爆撃するに至った意思決定機関はどこだったのかを特定するために当時の天皇・内閣・軍の関係を整理します。まず軍ですがこれは天皇直下に陸軍参謀本部と海軍軍令部が置かれており内閣から独立していました。内閣には陸海軍の編成大権輔弼責任者として陸海軍大臣、外交大権輔弼責任者として外務大臣が存在しました。統帥部と政治との協調に任ずるのが陸海軍大臣でしたが統帥に関する事は統帥権の独立から一言も触れられなかったため、支那事変勃発時において近衛首相は軍がどこまで進めるかさえ知りませんでした。

 1937年11月20日大本営編制と大本営勤務令が制定されます。大本営海軍参謀部は軍令部総長・軍令部次長・将官5名・佐官45名の52名構成で構成され、大本営海軍諸機関は軍令部総長に隷属するものとされました。大本営陸軍参謀部は参謀総長・参謀次長・大本営陸軍参謀3名・佐官47名の52名構成であり、海軍と同様諸機関は参謀総長に隷属されるものとされました。つまり陸海軍共に参謀部がほぼ大本営員となっただけです。大本営の設置と共に大本営政府連絡会議を設け重要議題は前もって議決するとされました。

 11月24日に開催された第1回大本営御前会議は天皇親臨のもとに閑院宮陸軍参謀総長・伏見宮海軍軍令部総長・杉山陸軍大臣・米内海軍大臣・多田参謀次長・嶋田軍令次長・下村定参謀本部第一部長・近藤信竹軍令部第一部長が出席、陸軍参謀総長が作戦方針を言上した後、参謀本部第一部長が天皇に御説明申し上げました。重要事項以外は大本営御前会議では無く参謀総長・軍令部長による上奏を天皇が裁可すれば、それはすなわち大本営の決定となります。陸軍における大本営命令「大陸命」、海軍に於ける大本営命令「大海令」は、天皇の名により出される大命ですので事前に天皇による允裁が必要でした。両大本営命令は参謀総長や軍令部総長に奉勅伝宣されますが、両総長はあくまで幕僚長であり、司令官ではありません。統帥部が天皇に上奏する際には必ずその命令が必要な「御説明」を作成し、允裁を仰ぎました。作戦上奏は大本営陸軍参謀部と同海軍参謀部の中核である参謀本部第1部第2課(作戦課)、軍令部第1部第1課(作戦課)の課員(大尉・少佐)・班長(中佐)クラスが起案し、作戦課長(大佐)・作戦部長(少将)・次官(中将)・総長(大将)の決済を経た後に上奏されました。

 以上が指揮系統ですが、大本営は陸海軍を統一して指導をする機関では無く、大本営陸軍部は参謀本部であり大本営海軍部は軍令部であったといえるでしょう。そして陸海軍間は独立しており相互に協議を要すること以外はお互い知りませんでした。元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝は「日本には実際上の戦争最高指導者はなかった」述べており、堀場一雄「国家全般に於ける戦争指導の主体が確立せられず」、参謀本部第2課班長、作戦課長等を歴任した稲田正純「戦争指導形態は支離滅裂であった」大本営設置についても「政府としては、日清戦争当時伊藤総理が特旨で大本営の義に列して強力な指導力を発揮した前例にならいたかったのであろうが、海軍は頑としてこれに反対する」と述べています。更に重慶爆撃において蒋介石官邸を爆撃した遠藤三郎も、竹田宮より要求された「武力戦的見地に基づく中央部の統帥」問題研究において「本事事変戦争指導に関する最重要問題は御前会議に於いて議せられたる囗ありと雖も制度として戦争指導最高機関の組織なきは一の欠陥と認めざるを得ず(中略)実力なき名のみの大本営を改め」天皇の下に総理大臣・参謀総長・軍令部長を置き、戦争指導の最高機関とする必要がある事を戦時中の1940年に意見具申しています。以上の意見をみるに日本には最高責任者がおらず、政府と陸軍、海軍の3者がバラバラだったといえるでしょう。

陸海軍の航空用法

 ではまず陸軍における航空機の運用方法をみていきます。1937年7月11日の支那への派兵決定と共に海軍軍令部と陸軍参謀本部間で北支作戦の海陸軍航空協定が策定され、敵航空勢力の覆滅に関して北支方面は主に陸軍、中支南支は海軍を主とするとされました。しかしこれを公表すると事件拡大の要因となる恐れがあり、陸軍参謀本部は発令を保留、海軍軍令部は内示程度に留めます。

陸軍の航空用法

 陸軍では1936年に「航空部隊用法」を編纂し、1937年11月航空本部長東久邇宮稔彦王中将により配布されました。その内容は敵飛行場への進行第一主義として

自主積極的に敵機を其飛行場に捕捉撃滅するを本旨とし(中略)用地内に包括する重要なる政治、経済、産業等ノ中枢機関を破壊し又は直接其住民を空襲し敵国民に多大の恐怖を与えて其の戦争意思を挫折すること緊要なり陸軍航空の軍備と運用(1)

としており、当初より陸軍の用法では住民への攻撃も含まれていたことが分かります。1937年7月26日陸軍中央部は支那駐屯軍司令官香月清司中将に対し飛行部隊の運用について「(1)地上作戦に密に協力するを本旨とす(2)対地攻撃及爆撃の実施に方りては目標の選定其他に関し国際関係を考慮するを要す」と第三国機関への誤爆を避けるように命令したが交戦国機関については言及はありません。前田哲夫は「日本軍は、協力を誓わない中国人を全て潜在的な敵とみなして相対していた。これは空からの攻撃にとってまことに都合のよい見方であった」としています。また「満州事変にまでさかのぼるいわば連脈と続いてきた攻撃方法であった」とも述べています。

海軍の航空用法

 次に海軍ですが、海軍の支那事変当初の航空隊の運用については、海軍大学校教官兼海軍書記官榎本重治が

・単に普通人民を威嚇し軍事的性質を有せざる物件を破壊し、非戦闘員を損傷する目的を以て爆撃することを得ない

・爆撃し得るものは所謂軍事的目標即ち其の破壊又は毀損が明瞭なる軍事的利益を與ふるが如き性質を有するものに限るべきである。(イ)軍艦、軍用飛行機、軍隊(ロ)軍事工作物(ハ)軍事建設物(ニ)軍事貯蔵所(ホ)明に兵器弾薬、軍需品製造に従事する工場(ヘ)軍事上の目的に使用せらるる交通線、運輸線支那事変に於ける帝国海軍の行動と国際法

と明言しており「空戦に関する標準」「爆撃規則に関する雑件」が出されました。爆撃規則に関する雑件では「(一)直接軍事上の目標を有せざる、単に敵国人民を脅威するの目的を以てする爆撃は禁止せらる」と威嚇目的での爆撃を禁止しています。大海令第12号で「敵攻撃し来らば機を失せず敵航空兵力を撃破すべき」指示を受けた支那方面艦隊司令長官長谷川清は「空襲部隊は全力を挙げて敵航空基地を急襲し、敵航空兵力を覆滅すべし」と命令、攻撃目標は敵航空兵力とされています。

 以上のように陸軍では当初より住民に対する威嚇が含まれており、一方海軍ではそれを禁止していたことが分かります。

重慶爆撃の実施

1938年前半-奥地攻撃の一部としての最初の重慶爆撃

 海軍は8月14日の杭州・広徳の各飛行場を皮切りに15日以降は上海や南京などの敵基地爆撃を開始し、9月になると英国機が九龍付近で組み立て中という情報やソ連機数10機が南京着などの情報が入ったため長谷川長官は南京や広東、漢口の攻撃を命令します。この命令に基づき9月14日三竝司令官は「南京に於ける軍事政治経済の諸機関に対し制空権下の空爆を実施せんとす」と命令し、第二連合航空隊参謀は作戦細項に関する趣旨として「(5)爆撃は必ずしも目標に直撃するを要せず敵の人心を恐怖させるのを主眼とする」としました。政治経済の諸機関を空爆するというのは前述の榎本の航空運用方針から逸脱していますね。南京を爆撃するにあたり長谷川司令官は戦禍が一般人に及ぶのを避けるため避難勧告を出しますが、この避難勧告に対し中華民国は盛んな宣伝を行い国際連盟による対日空爆非難決議が出されます。広田外務大臣は「爆撃は軍事目的達成に必要已むを得ざるものに限定し無差別的に非戦闘員をも対象とするものではない」とし、本田海軍武官も「爆撃目標は軍事目標に限定し細心の配慮の下に正確に実施されつつある」と発表せざるを得ませんでした。

 広東方面の航空攻撃は目的を達成したため、23日には南昌飛行場、23日には漢口製鉄廠を爆撃しました。この当時から南京広東といった沿岸部だけではなく漢口も攻撃対象とするなど、敵基地がある所は奥地でも攻撃していたことがわかります。

 一方、北支では陸軍より西安方面攻撃の要望が来ており、海軍は上海戦が一段落した11月南苑に進出し21日から29日にかけて周家口・洛陽・西安を攻撃します。また同月初旬よりソ連機の蘭州進出が活発になったため12月4日より蘭州攻撃を開始しました。

 海軍本来の持ち場である中支方面では南京攻略後の12月25日、長谷川長官により漢口・南昌・襄陽・長沙・宜昌等における敵航空戦力の撃破、揚子江流域の偵察が命じられます。この命令に基づき1938年1月24日宜昌飛行場を初めて攻撃しましたが、この攻撃では米国教会を誤爆「故意では無く誤って命中し損害を与えた」ことを認め謝罪しました。

 宜昌上流の四川省に関しては、四川省内の反中央的風潮が激化し、土着軍の勢力盛んとなり成都に厳戒令が発令され、敵の内部に動揺が見られたため、重慶空襲を企図し、長谷川長官は2月8日に爆撃命令を出します。命令を受けた塚原司令官は9日中攻隊により重慶空襲を計画し報告、18日6時25分佐多少佐指揮の木空中攻9機が重慶攻撃のため発進、11時25分ころ重慶下流46里(23km)の広陽壩飛行場に練習機らしきもの10数機を発見し爆撃、14時10分全機帰着しました。同日、鹿空中攻9機は衡陽飛行場周辺の敵機15機と交戦、木空中攻9機・鹿空中攻6機・二聯空艦戦11機は漢口で飛行場を爆撃しそれぞれ敵戦闘機と交戦しています。

 以上のように1938年初期の攻撃は蘭州や漢口等の奥地攻撃の一部として「重慶も」攻撃したに過ぎません。そしてこの時点では公式には飛行場の爆撃や敵戦闘機との戦闘という軍事目標に対するものであったことも分かります。

都市爆撃に至る経緯

 南京陥落後も蔣介石は抵抗を続けたため、日本軍はその補給を断つべく1938年広東及び漢口を陥落させます。戦争並びに作戦指導の中枢的業務を担当した稲田作戦課長は漢口作戦について「単なる戦略的成果を以て甘心するには余りにも重大である。必ずやこれに雁行する諜略工作によって蒋に妥協の余地を与え、なし得る限り終戦の機を捕捉せねばならぬ」としながらも政治力が伴い得ぬため事件解決に至らない事も懸念していました。中華民国における近代工業の多くは沿岸・長江中下流域に集中しており、内陸の登記工場数は全国の8%しかなかったため陸軍大本営が広東・武漢の攻略は事変を終結し得る作戦と考えていても不自然ではないでしょう。更に支那海軍は殆ど大部を撃破、捕獲され、制海制空権は殆ど日本側がこれを占める状況であり、広東を失ったことにより香港からの支援物資輸送は困難になり、仏印ルート・ビルマルート・北方ルートのみとなっていました。しかし一方で日本軍も1938年10月の武漢占領時では80万人の大軍が中国大陸に釘付けとなり、国内には近衛師団を残すのみとなり更に展開する余裕はありませんでした。

 10月中頃漢口作戦後の長期戦に対処するため戦争指導当局は「(1)特に重要なる必要の発生せざる限り占領地拡大を企図することはなく(中略)(5)戦略殊に政略上の要点に対し執拗なる航空作戦を継続する」事を策定、11月18日概定、12月6日陸軍省部で昭和13年秋季以降対支処理方策として決定しました。つまり、基本的には占領地拡大は停止し、以後は航空部隊による「執拗なる航空作戦を継続」し「敵の戦略中枢を制圧錯乱する」ことが命令されたのです。陸軍は11月に策定した陸軍作戦指導要綱でも「(3)航空作戦は依然積極的に指導し特に敵の戦略及政略中枢を制圧すると共に敵航空戦力の撃滅に務む」としています。これらの構想に基づき12月2日大陸命第241号が参謀総長閑院宮載仁親王名をもって北支那方面軍司令官杉山元・中支那派遣軍司令官畑俊六・第21軍司令官安藤利吉に奉勅伝宣されました。同大陸命はその(5)において「中支那派遣軍司令官は主として中支那及北支那に於ける航空進行作戦に任じ、特に敵の戦略中枢を制圧攪乱すると主に空戦力の撃滅に勉むべし。密に海軍と協同するを要す。北支那方面軍司令官及び第二十一軍司令官は各々其有する航空部隊を以て適宜其正面の航空作戦を実施すべし」としており、航空作戦により敵戦略中枢を制圧することが明記されました。大陸命をうけて同日、参謀総長閑院宮載仁親王は大陸指第345号で「全支に亘る航空作戦の実施に関する陸海軍中央協定別冊の如く定む。敵の戦略及び政略中枢を攻撃するに方りては好機に投じ戦力を集中して特に敵の最高統帥及最高政治機関の捕捉撃滅に勉むるを要す」と命令します。奥地攻撃とは「重慶、成都、蘭州等中国奥地の政・戦略用地を爆撃する」ことです。

 大陸指第345号に記述された別冊が「航空に関する陸海軍中央協定」です。支那事変当初に海軍軍令部と陸軍参謀本部間で策定された「北支作戦の海陸航空協定」と今次の大本営海軍部と大本営陸軍部による「航空に関する陸海軍中央協定」を比較すると「敵航空勢力の覆滅」から「戦政略的航空戦」へと変化しており、支那事変当初は爆撃目標は国際的にも認められている敵航空戦力の覆滅であったのが、この時期をもって戦政略的航空戦に変化したことが分かります。

1938年後半-陸軍による重慶爆撃

 政略面では1938年12月下旬汪兆銘の引き出しが成功していました。事変解決のためには汪政権の地位の充実、重慶に対する政謀略の推進とその支援のための奥地爆撃、援蒋軍需補給遮断のいずれも重要と考えられていました。戦政略的航空戦における奥地攻撃を最初に担当したのは陸軍です。大本営陸軍部は10月末の時点で中支派遣軍航空兵団に対し奥地に対する戦政略爆撃の企図を連絡、11月15日実行部隊となる第一飛行団に対し7週間以内に訓練を終えるよう命じ、12月9日前述の大本営命令に基づく本作戦を命令しました。敵の抗戦意思を挫くための爆撃法として100頓以上の弾種による政治中枢を含む地域爆撃とし、最大効果を得るため攻撃時刻は13時頃としました。12月下旬陸軍航空兵団司令官江橋英次郎中将は第一飛行団長寺倉正三少将に対し重慶攻撃を命じました。寺倉少将は「(2)飛行団は重慶市街を攻撃し蒋政権の上下を震撼せんとす」べく「(7)目標は重慶市街中央公園都軍公署、公安局県政府を連ぬる地区内とし副目標を重慶飛行場と」し、攻撃日時を12月26日13時に定めました。しかし雲に阻まれたため、戦隊は蜜雲隙間に辛うじて発見した重慶東側地区を推測爆撃しました。その後天候不順により攻撃を見合わせてましたが、1939年1月2日重慶で共産党のクーデター勃発の情報があったためこれを好機とし7日再度推測爆撃しました。汪兆銘離脱に続いてのクーデター情報であり重慶政権崩壊の期待は相当高まったことと思われます。10日は晴れており、ようやく市街を確認し綿密な爆撃を実行出来ました。つまり前回2回は雲が多く攻撃目標を未確認のまま推定で爆撃していたのです。

 重慶方面は天候不順の為、寺倉少将は蘭州方面に目標を変更します。蘭州はソ連との連絡の要所であるため蘭州攻撃により補給を断つことが見込まれる一方、敵戦闘機による邀撃も覚悟しなければなりませんでした。攻撃目標は蘭州東空港、副目標を市街としましたが、これは敵航空戦力の空地における撃滅を第一としたものでした。以後数回にわたる蘭州攻撃は市街爆撃は成功しましたが敵戦闘機に撃墜されたものも多く、戦闘機の援護無しでの重爆撃機単独攻撃は至難なことが印象付けられます。3月15日航空兵団司令官によって奥地進行作戦は中止、陸軍航空兵団はソ連の援蒋ルートを遮断すべく北支に移転しました。

1939年-海軍による重慶爆撃

 一方、海軍は5月3日より重慶爆撃を開始します。攻撃では中国軍によるソ連式の迎撃を受け中攻2機が被弾により自爆するなか行われ、重慶城内南北1.5km幅500m、主要な街道27のうち19通りに被害が及び673名死亡、負傷者350名をもたらしました。翌4日は迎撃を避けるため薄暮に行われましたがそれでも中攻27機のうち7機は被弾しました。5月3日4日の被爆地について中国側では「重慶の商業施設、住宅密集地であり、人口密度が高い旧市街の下半城(中略)が主な攻撃目標とされた」とされています。両日の爆撃では250kg爆弾と60kg爆弾に加え焼夷弾88発を旧市街中心部(重慶城内)に投下、木造建築が多いため数か所より猛烈なる火災を引き起こし、約4000名の死者を出しました。これが戦略爆撃として最初の大規模な爆撃となります。

 5月3日4日の爆撃はその被害において極めて重要なので戦闘詳報より詳細を検討します。

 まず、命令による攻撃目標は、第1目標として重慶市街軍事施設、第2目標として重慶広陽壩飛行場又は白市駅飛行場、第3目標以下は万県や南川など重慶周辺の飛行場又は軍事施設です。軍事施設が何を意味するか不明ですが、明かな軍事施設である空港よりも市街軍事施設が優先されていることに注目してください。当日は11時15分漢口を発進、15時11分敵戦闘機30余機と空戦、15時17分高度4500-5000mより重慶市内軍事施設爆撃、高角砲及機関銃の射撃を受けながら、17時55分漢口に帰着しました。成果としては「都市の南方対岸及河中に弾着せる外、全弾市街中枢部に命中。軍事委員会委員長行営を中心として中央公園北東部より対岸水泥廠付近に至る迄大損害を与え市内数カ所より猛烈なる火災を生じせむ」とし、所見として「(2)焼夷爆弾を混用したるに重慶市街建築物木造多かりし為火災の効果を大ならしめ得たるものと認む」としています。

重慶市街爆撃弾着図(5月3日)

この図では「弾着錯綜し全体を一括記入す」と明確な軍事施設として高角砲は記入されているにも拘らず、爆撃した地域における軍事施設が何なのかは記されていません。

 4日の戦闘詳報でも攻撃目標は重慶市街地軍事施設、第1大隊は重慶市街中方地区、第2大隊は同東方地区、第3大隊は同西方地区並に高角砲陣地とされています。成果としては「第1大隊は全弾委員長行営演武所、第3模範市場及付近一帯の施設に命中、数か所に大火災を生じせむ」「第2大隊は全弾市街中枢部に命中、中央公園外交部国民政府及行政院等の大建築物を破壊し数か所に火災を生じせむ」「第3大隊は全弾市街西方地区及付近高角砲及高角機銃陣地に命中、数か所に火災を生ぜしめ陣地に大損害を与う」と記されています。前日の爆撃で確認済みの明確な軍事施設である高角砲を対象とするのは第3大隊だけです。ほぼ前日と同様の地区を爆撃していますが、この図によると重慶旧市街を囲むように高角機銃が配置されている事が分かります。防御砲火については所見で「敵の防御砲火は予想外に熾烈にして精確なり」とし日本軍にとって脅威であったことが分かりますが、それならば余計にこれらの高角砲・高角機銃を掃討する方が合理的に思えます。一方で攻撃が市街地軍事目標ではなく市街地であったとしたら順当な攻撃であったとも見えます。

重慶市街爆撃弾着図(5月4日)

 同部隊は7日には初の「成都市街軍事施設(但領事館を避く)」爆撃を命じられましたが運城より発進後、発進機不良及び天候不順により襄陽・西安を爆撃し漢口W基地に帰還しました。続く8日には「第1目標重慶飛行場、第2目標重慶市街東部軍事施設(領事館軍艦を避く)」として重慶夜間攻撃が予定されたが霧が深く目標視認不可となり宜昌城内軍事施設を爆撃しました。13日の攻撃計画では目標は「重慶市街、但し嘉陵江北岸に大部分を投下、一部を重慶市街西方地区に投下」とされ、「全弾嘉陵江北岸の市街に命中、数か所猛烈に炎上」しました。単純な書き漏れ、もしくは当然なので書くのをやめたのかもしれませんが、目標においても報告においても「市街軍事施設」ではなく「市街」とされています。

 大本営海軍報道部長金沢正夫少将は5月の爆撃について「我が海軍航空部隊が去る3、4日の両日に亘り矢継早に決行した重慶大爆撃によって、国府の狼狽、民心の動揺その極みに達し、蒋が武漢喪失後牙城と頼んだ首都重慶も最早継続不可能となり又しても蒋介石の都落ちが取り沙汰されている」とし戦略爆撃の圧倒的効果により、支那事変の進展がみられると自負していた事がうかがえます。攻撃目標については「我が空襲部隊は厳に軍事施設を目標としていることは勿論であるが、偶には爆弾炸裂の余勢で市民も犠牲を免れないこともあり得ると覚悟するのが常識である」とあくまで軍事施設であるが市民の被害も仕方がないとの見方を示しています。しかし汪兆銘の脱出に続き、都市爆撃でも蒋介石が屈服する事はありませんでした。

1940年-陸海軍による百一号作戦

 1940年になると欧州において5月中旬ドイツがオランダ・ベルギーに侵攻し6月にはパリが陥落しました。中国方面では改編された海軍艦隊の新長官に嶋田繁太郎が任じられ「自分の任期中に支那事変を片づけたい」と意気込んでいました。そして同時期に中国戦線へ転じたのが、奥地戦略要点の攻撃作戦を、その成否こそ日中戦争解決の鍵とみなしていた支那方面艦隊参謀長井上成美です。5月井上成美の計画立案により、聯合急襲部隊司令部による百一号作戦の概要が示されます。百一号作戦では兵力並に天候の許す限り攻撃を続行すること、また昼夜連続して攻撃すること、さらには宜昌占領後の戦艦による進攻まで定めており屈服しない蒋介石に対する圧力を強めようとしました。概要を示します。

【作戦方針並に攻撃実施要綱】

三.作戦方針並びに攻撃実施要項

(1)作戦期間

1.5月中旬より約3か月間と予定す

2.重慶方面に対する攻撃実施第1日を5月17日と予定す

3.作戦期間を左の如く区分す

第1期:主として重慶方面に対する作戦期間

第2期:主として成都方面に対する作戦期間

(2)作戦方針

1.作戦開始の囗頭先づ敵爆撃機の基地を攻撃し敵進行の気勢を挫く

2.第1期作戦に於いては敵戦闘機を重慶方面に於て勦滅。同方向の制空権を獲得したる政治軍事機関を徹底的に破壊す

第1期作戦の戦果を十分収めたる後第2期作戦に転じ同一要領の作戦を成都方向に対し実施す

(3)攻撃実施要領

1.から3.は敵戦闘機撃滅方法なので中略。

4.敵軍事施設の攻撃

 イ.諜報機関の情報並びに偵察機囗の活用に依り努めて敵重要機関の偵知に努む

 ロ.主として昼間全力を挙げて之を攻撃し且兵力並に天候の許す限り攻撃を続行す

 ハ.月明利用期間は極力昼夜に亘る連続攻撃を実施す

 ニ.事前偵察を実施したる後攻撃を実施する如くす

 ホ.爆撃目標の選定並に爆撃の実施に当たりては第三国権益に被害を及ぼさざる如く。特に其の外交機関及軍艦に対しては絶対に之を避くる如く注意す

 ヘ.宜昌飛行場完成後は重慶方面に対し艦攻艦爆を進攻せしめ攻撃力を一層集中す

(4)防空に関する方針(以下略)

 5月13日「百一号作戦に関する陸海軍協定」が陸軍第三飛行集団長、海軍連合空襲部隊指揮官により締結された。協定内で攻撃実施要項については別途とされたが、5月29日に6月中に於けるものとして「百一号作戦に於ける攻撃実施要項に関する陸海軍協定」が結ばれた。

一.攻撃実施予定

(1)陸軍は6月5日頃より同中旬まで適宜攻撃を継続す

(2)海軍は6月5日頃より同中旬まで概ね連日攻撃を継続す

(3)陸海軍は6月中旬以降、月明利用期間は極力昼夜に亘り連続攻撃を実施する。

 この期間の陸軍攻撃回数は9回で、うち重慶核心に近かったものは6回でした。一方、海軍は23回攻撃し、内重慶核心への攻撃は11回であったと板垣征四郎支那派遣軍参謀長より阿南惟幾陸軍次官へ報告されています。

 陸軍第三飛行集団戦時月報乙7月分では5月から7月に至るまで敵被害報告として「重慶に於ける軍事行政経済文化等の諸施設をはじめとして重要建築物等多く爆碎炎上し上下を通じ齊しく物質的に将又精神的にに甚大なる損害打撃を受け首都としての機能を減退すると共に頑昧なる特殊抗日分子を除き一般には抗戦放棄和平待望の機運に向かいつつあるものと観察せられる」とし、具体的には以下のような成果がありました。

(1)全市街建築物の2割は全壊、8割は損害を蒙り市内は1つとして被害を蒙らざる街なし

(2)江北弾子石は爆撃を受け実に惨憺たる情景を呈す

(3)目下重慶の商店は約8.9割は停業中

(4)(省略)

五.破壊せられたる主要建築物

(1)行政施設

(2)教育施設:重慶大学・復旦大学・教育学院・河東師範中央大学・中央工学校

(3)商店街又住宅街は約2000戸全焼せり。重慶ホテル直撃により破壊。他にも全焼・爆破あり

工場施設:製米会社・軽油工場など

公共施設:水道の鉄管及電線等爆破切断され水の補給及配電途絶

 作戦開始後5月26日より攻撃目標は重慶付近軍事施設並政治機関とされました。第三国機関への誤爆は厳禁とされ、誤爆を避けるため当初は磁器口や化龍橋、嘉陵江対岸江北地区など重慶郊外を目標としていました。その後6月14日有田外務大臣より第三国に対し長江対岸の弾子石から龍門浩までの地域を安全地帯とするので重慶作戦終了まで非難するよう勧告します。遅くともこの頃には市内を無差別爆撃し、徹底的に破壊する意思はあったと考えられます。避難勧告より10日を経た24日より市内重要施設に対し徹底的爆撃を開始しました。7月に入ると外国機関が南岸安全地帯に移転したとの情報を受けます。安全地帯を設定しましたが、安全地帯南側が援蒋ルートの終点(海棠溪)であり軍需物資集積地となっていたため8月22日爆撃しました。23日には安全地帯北側の軍事工場地帯を爆撃した。安全地帯の北限弾子石の北側は王家沱、つまり日本租界が存在していた地です。日本租界当時は製糸工場と醤油工場しか無かったですが、臨時首都となり軍需工場が移転したのか、それとも軍需工場ではないが爆撃したのかは不明です。いずれにしても安全地帯に対する南北両端の挟撃に依り敵並に第三国人に与えたる精神的効果も蓋甚大なるものあると認められました。一方で計画にあった昼夜連続攻撃は夜間天候不良のため概ね昼間のみの攻撃になりました。8月19日以降は零戦が投入され重慶上空の制空権は完全に日本側となり首都機能はほとんど停止します。全作戦期間を通して攻撃日数は32日、軍事施設政治機関に対し使用した戦闘機は延べ1737機(うち陸軍は283機)、投下した爆弾は約1271頓(内陸軍約124頓)に及びました。当初は第二期として成都方面の攻撃が予定されていましたが、全期間を通してほぼ重慶周辺の攻撃となりました。

 百一号作戦以降「市街全域は『B区』『D区』などの略号によって区分、表示される自由爆撃地区」となっていました。つまり地区ごと爆撃するのであって軍事施設だけを目標としたものでは無いことが分かります。

 1940年6月5日には防空壕内で多数の市民が窒息死し「六・五隊道惨案」として今でもサイレンが鳴り響きます。もちろん空爆がなければ発生しなかった事件ではありますが、消防が防空壕の外から鍵をかけたため防空壕内の酸素が欠乏し息苦しくても外に出ることが出来なかったことが一因とも言われています。 

 奥地では前年1938年より市街地を攻撃していましたが、それはあくまで軍事目標付近でした。しかし井上成美による百一号作戦においては無差別連続攻撃となりました。それは市街地、非軍事工場、公共施設、教育機関を含む攻撃であり、物質的にも精神的にも甚大な損害を与えましたが、それでもなお蒋介石を屈服させることは出来ませんでした。

1941年-陸海軍による百二号作戦

 1941年になると日米間の国交悪化が顕著になり、兵力に余裕のあるうちに支那事変を片づけるべく海軍は5月3日重慶攻撃を再開し、7月中旬までに22回の奥地攻撃を行いました。同月久門有文陸軍中佐と三代辰吉海軍中佐により両統帥部長決裁のもとに奥地攻撃について、6月7月は海軍主体とし、陸軍は8月初めから攻撃する事を申し合わせ「百二号作戦」とします。この申し合わせにより陸軍では、攻撃第1期は中距離の都市及び交通の要所、第2期は奥地の飛行場及び自流井などの製塩所、第3期は重慶を連続爆撃するという計画を7月中旬に確定します。塩を断って降伏に導くというのです。海軍は支那事変始まって以来の大兵力となる第十一航空艦隊の陸攻約180機を支那方面艦隊に編入した後、7月28日から3か月の猛攻を仕掛ける予定でしたが、8月1日の米国対日石油全面禁輸を受けて8月31日に中止されました。

 こうして始まった百二号作戦ですが海軍が同作戦中の7月30日、重慶停泊中の米国砲艦ツツイラ号付近に誤って投弾し米国の対日感情悪化に拍車を掛けてしまいます。8月30日には陸軍少将遠藤三郎が自ら別府中隊長機に搭乗して蒋介石官邸を爆撃、「重慶東方の蒋介石並に重慶政府要人の行営地と目せられる部落を全面的に攻撃(中略)甚大なる損害を与えると共に重慶政府要人に多大なる脅威を与えたるものと認む」と戦闘詳報には記されていますが、遠藤の日記には「本日の重慶爆撃に依り重慶は未だ死の都市にあらざる感せり(中略)爆撃のみを以て屈服せしめんとするが如きは根本的に誤りならずや。また大都市、倫敦に於いて数千の独軍爆撃機の攻撃を以てしても尚且つ死命を制し得ざるを見ても、その観念誤りなきものと思惟する」とこれ以上の爆撃は無意味との思いに至っています。翌31日は海軍にとって本作戦最終日ですが「最奥地攻撃を企図せられ友隊中攻18機と共に36機を以て長駆、四川省西部の要衝、西昌及び昭通を急襲、其の飛行場並びに周辺諸施設を命中(中略)甚大なる損害を与うると共に多大の精神的脅威を与えた」とされました。

 ところがこの攻撃も遠藤には成功とは思えず、「百二号作戦に参加して奥地進攻に任じ其の実跡に鑑み」9月3日「奥地進攻作戦に関する意見」として奥地爆撃の中止を参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐に意見具申します。

1.敵航空勢力撃滅を目的とする奥地進攻作戦…最近に於ける敵航空の動向は我が攻撃に方りては逃避を事とし 且迷彩、遮蔽、援護、欺騙至らざるなく殊に我が攻撃の為めの行動距離長遠にして其の間、諜報監視網の厳重なる関係上、奇襲の成果を挙ぐること殆んど不可能なる状況に在りて一般ノ進攻作戦を以てしては到底其の目的を達成し得ざること極めて明かなり。去る8月31日陸海航空部隊の全力を以て実施せる本攻撃が全く不成功に了りしは之を証するものなり。(以下略)

2.要地攻撃…従来報道せられありし爆撃効果は稍々過大にして重慶を廃墟の如く判断するは大なる誤りなり小職の実現せる所に依れば重慶の如き寧ろ其の四周に発展しあるものと思はしむるものなり。抑々支那民族は古来天変地異並び兵禍其の他人為の災害に虐げらるること幾千年、有ゆる災害に慣熟して之を天命と諦観するの風習あり、故に爆撃による衝撃の如き当初は兎も角も数年委亙る先例に依り既に免疫となり大なる感受性を有せざるに似たり(中略)之上司の再検討を切望する所以なり。

このように遠藤は従来語られていた爆撃成功被害甚大を否定します。昨年の百一号作戦で市街地の2割全壊、8割は損害となりましたが、むしろ市街地は四周に発展しており、爆撃では目的を達成することはできないというのです。遠藤の具申が通ったのか3日後、支那派遣軍は中央からの指示に基づき奥地攻撃作戦の中止を隷下飛行部隊に伝達します。その後1942年は爆撃は行われず偵察のみ、1943年1944年は散発的な攻撃が行われますが百一号作戦、百二号作戦のような大規模な爆撃は行われませんでした。

1942年以降の対重慶戦略

五十一号作戦

 太平洋戦争の開戦に伴い日本軍は従来の対支ソ連に加え対米英蘭に対する準備が必要となり重慶政権の屈服が急がれました。しかし軍事的には南北に目を向けねばならず屈服は厳しいとの見方が大本営にはありました。1942年3月7日の第92回大本営政府連絡会議では外務大臣が「重慶政権に対して諜報路線の設定だけで済まして居るんは可笑しきに非ずや、軍事的に何とかならぬのか」と問い、参謀次長が「支那のみを考えれば軍事的にはやってやれぬことはあるまい。併し北もあり南もあり此等を全部考えれば出来ぬることは判るならし。重慶まで攻め込むと言うことは実際出来ぬ相談なり。併し局部的には勿論やる」と回答しています。

 一方で支那派遣軍は使命が蒋介石政権の屈服ですので、参謀総長杉山元大将は1月初頭に第二課長服部卓四大佐に対し作戦部として重慶作戦を検討するよう提議していました。北支那方面軍も同年当初より南方作戦終了後に兵団を増強された場合について「北支の治安向上と対敵圧迫の見地から、おおむね6月又は9月頃、西安付近を攻略して胡宗南の重直系第8線区軍を撃滅し、次いで延安の中共軍本拠を撃滅する」作戦を構想していました。総司令部側では重慶側に打撃を与えるには常徳、長沙方面の穀物地帯を奪う方が有利であると判断していましたが、北支那方面軍の西安作戦も含めて統帥部に報告します。杉山は3月19日「今後の作戦指導に就て」重慶作戦は「今般の情勢特に対ソの情勢之を許す場合に於きましては、大東亜戦争の成果を利用し断乎として支那事変処理に邁進し速やかに之が解決を図り度と存じます」とし、作戦時期についてはビルマルート遮断後、数ヶ月してその効果が出る時期と上奏します。4月6日杉山は上海で畑総司令官と会談し、重慶に対する武力使用は決定ではないとしつつ上記を説明、これに対し畑は「武力を使用にあらざれば重慶を屈服させ得ない」ことを繰り返し強調した。

 その後研究を重ねた結果、西安作戦単独では戦局全体に及ぼす影響が少ないため四川攻略戦と併せて行うべきとして、5月16日参謀次長田辺盛武中将は総司令部に対し以下のように連絡します。(1)西安作戦は五十号作戦と称し、西安正面の敵を撃滅して西安及宝鶏付近の要衝を攻略し、且西北ルートの遮断に努むると共に重慶へ圧迫体勢を強化する。作戦時期は9月以降(2)四川侵攻作戦は五十一号と称し、大東亜戦争の戦果を利導し機を見て四川平地に囗する侵攻作戦を実施する。作戦時期は1943年春以降、西安漢中より8個師団、宜昌より3個師団。つまり四川盆地の北側と東側から同時に進攻するという趣旨です。1938年から3年にわたり続けた空爆による屈服を諦めて遂に地上軍による重慶進攻が計画されたのです。しかし8月より開始されたガダルカナルの戦況が悪化するに伴い、支那派遣軍からも南方に転進が命じられるようになり、大量の物資・兵団を要する同作戦の実行見込みは薄くなり、ついに12月10日大陸指第1367号をもって中止されました。

最後の四川作戦

 1944年になると日本の戦況は極めて厳しいものとなっていましたが支那においては打通作戦が成功していました。国民党の敗戦や腐敗に対し共産党が圧迫を強めていて、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の目にもあと一歩と見える感じまで蒋介石政権を追い詰めることができました。米軍が本土に迫るなか、岡村は重慶を強攻することにより米軍を中国大陸に誘導し100万の支那派遣軍をもって米支を迎え撃てば、内地を救いうると考えていました。打通作戦により重慶軍は著しく混乱していたので同年中頃迄が四川に進行し敵の抵抗根拠を覆滅し敵の総反攻を未然に粉砕すべき最後の好機とみていたのです。岡村の指示を受けた宮崎参謀は「四川進攻作戦計画大綱案」を書き上げます。その作戦は3月下旬より衝陽及柳州各西方正面より攻勢を開始し芷江及貴陽付近を攻略し、重慶及成都を攻略するというものでした。1945年1月3日支那派遣軍総参謀長松井太久郎が同案を持参し東京の参謀本部へ意見具申したところ、参謀本部第一部長宮崎中将は「支那軍の弱体化は事実なり。今一息というところなり」と肯定的でした。そして1月22日今後の方針を定める大陸命第1228号が命令されます。

一.大本営の企図は進行する敵特に主敵米軍を撃破して皇土を中核とする国防要域を確保して敵の戦意を破囗するに在り

二.支那派遣軍総司令官は支那大陸に侵攻する主敵米軍を撃破して其企図を破囗し大陸に於ける要域を確保すると共に重慶勢力の衰亡を図るべし

大陸命に基づき大陸指第2363号が指示されます。

一.中南部支那沿岸方面作戦に関する陸海軍中央協定別冊の如し

二.支那派遣軍総司令官は主として重慶勢力の衰亡を促進し且在支敵航空勢力の活動を封殺する為支那奥地に対し多数の小部隊を以てする組織的長期に亘る挺進奇襲作戦を実施するものとす

そして別冊です。

第一 作戦目的(中略)

第二 作戦指導大綱

1.東部支那沿岸方面の戦備を速急に強化し敵米軍の進攻に方りては適時所要の兵力を集中して之を撃破し極力其の企図を破壊す

これらの3つの命令指示の通り、支那派遣軍の望んでいた重慶方面を主として沿岸部防衛を従とするのではなく、沿岸部防衛を主として兵力を集中、重慶方面は従とされ、ここにおいて大規模に進攻し四川を覆滅する事は不可能になりました。

まとめ

 日本軍は都市爆撃により蔣介石を屈服させようとしましたが蔣介石は耐え抜きました。そのため日本軍は到底無理と思われていた陸からの侵攻を考えますが中止されました。更に1945年にも重慶を攻撃することにより米軍を支那奥地に誘い込む作戦も考案されましたが却下されています。この展開が成功した場合、蔣介石政権は更に蘭州など後方へ撤退抵抗するのか?その時は中共八路軍はどう動くのか見てみたかった気もします。