重慶おもしろ街歩き

重慶唯一の租界・日本租界

 戦前の日本は天津や武漢など中国各地に租界を設置していました。もちろん日本だけではなく列強は各地に租界を設置していましたが、唯一日本だけが租界を設置していたのが重慶です。ところが重慶の租界は天津や上海の華やかな租界とは異なり工場と倉庫しかない謂わば現代中国の開発区のような立ち位置でした。

なぜ重慶に?

 重慶を最初に開港したのは英国です。英国は駐華公使館員マーガリーが雲南省で殺害された雲南事件の解決のために1876年清と芝罘条約を結び、重慶に英国政府駐在員の滞在を認めさせました。同条約は英国政府駐在員の駐在は認めるが、英国商人に関しては汽船が重慶に入港できるようになるまでその進出を認めないという内容でした。汽船が重慶に到着すれば英国商人が進出できるという条件のため英国人リットルが汽船を建造し重慶まで遡行を試みます。ところが清側は汽船で重慶まで行けるようになると船引の大量失職をまねくとして、1891年に芝罘条約の追加条約を結びます。追加条約では重慶開港を認めるかわりに、中国汽船が重慶へ遡航出来るようになるまで英国汽船の入港は認められなくなりました。重慶では開港の年はこの1891年とされています。

 こうした状況で日清戦争により1895年下関条約が結ばれるのですが、下関条約第六条第一項では新たな開港地として沙市・杭州・蘇州と並んで重慶が記されました。そして第六条第二項では湖北省宜昌から重慶までの航路の開放が定められています。中国汽船しか入港は認めないとする1891年の芝罘条約の追加条約から更に踏み込み重慶を完全開港としたのが下関条約であり、そのため開港済の重慶を改めて開港地として明記したのです。

 ここでなぜ日本から遠く離れた重慶を開港させる必要があったのかという疑問が生まれます。伊藤博文と共に全権として下関条約を調印した陸奥宗光は、通商上の譲与は「我政府が各国一般の利益の為に要求したる通商上譲与」と述べていることから、列強に対する配慮として要求したと考えられます。日本はロシアの干渉を恐れており、ロシアへの牽制として最強国である英国の支持を期待していました。英国の支持を得るため、英国が開港したが条件がついていた重慶を完全開港とする必要があったと考えられます。下関条約後に名古屋商工会議所が新開港場に視察団を送っていますが、重慶に関して「彼の外国人等の大に難んせし所の宜昌、重慶間汽船航行の特権をも併せ得たるは本邦人の一大面目なる」と記していることから、民間でも長江航路を切り開いたことで列強にも劣らないという高揚感を得ていたことがわかります。

租界の設置

 下関条約では開港されただけで租界の設置は認められていませんでしたが、1896年2月上海領事珍田捨己が重慶に出張し清国委員と租界設置交渉に望みました。清国側は長江対岸の王家沱という比較的平坦寛広な土地を予定地区として提示します。重慶城により近い江北縣では外国人を猛烈に嫌っていたこともあり、1891年に重慶税関が仮庁舎で業務を開始した際に既に、本税関は英国重慶領事と川東道との商議に由り同府王家沱に建築することと決定しており、外国機関を王家沱に集中させる意図があったのだと思われます。当時長江には橋は架かっておらず船で渡るしかないため、候補地と重慶城との往来は1-2時間掛かりました。つまり華やかなイメージを持つ天津や上海の租界とは異なり重慶における租界は現代中国の開発区のような立ち位置であったと言えるでしょう。

 1896年10月19日通商航海条約付属議定書により新開港各地への租界の設置が正式に決定しました。ところが重慶に租界が設置されるのは議定書締結から5年後です。1901年9月24日、大日本帝国重慶領事山崎桂と大清国川東兵備道監督重慶関兼弁通商事宜宝棻により「重慶日本専管居留地取極書」が締結されました。新たな領土として獲得した台湾を優先したこともあり、当時の国力では遥か遠くの四川まで手を伸ばすことは出来なかったのでしょう。5年間も放置していたということは下関条約に重慶開港を記したのはやはり英国への配慮であったとも考えられます。

 租界があった場所は武警医院となっています。

 さて租界は長江に対して東西に長い長方形の土地となっています。まずは長江に面した側から9区画に区割りしましたが、賃借人が埋まることはなく実際に利用されていたのは6区画に過ぎません。

 これは大正期に入っての租界利用状況ですが賃借人は以下のとおりです。

  • 第一号地 清水銀次郎 2257.575坪
  • 第二号地 又新絲廠 2561.983坪
  • 第三号地 武林洋行 1850.280坪
  • 第四号地の一部 宮阪九郎 950.964坪
  • 第五号地 又新絲廠 2561.983
  • 第六号地の一部 宮阪九郎 1423.378坪

 宮阪九郎という人物は租界設置とほど同時期に重慶に入りマッチ工場を営みます。その後又新絲廠という製糸工場や豚毛を輸出する新利洋行などを設立します。第一号地の清水銀次郎は新利洋行の後継会社新来洋行の代表者であり宮阪系列の企業です。つまり6区画のうち5区画は宮阪関連ということになり実質的に重慶租界は宮阪により運営されていたことになります。その後宮阪は又新絲廠の機器修復のための大新鐵工廠、醤油製造の怡新醤油公司なども設立しています。

引揚げによる混乱

 中国における排日運動としては五四運動が知られていますが、重慶では自然発生的に排日は起こりませんでした。一ヶ月遅れで上海・漢口・成都方面の排日が波及して来るにつれ、日商と商圏を競う英商も加わりましたが、日貨を排斥してもそれに代わるものが無く中国側官憲や商務総会は加わることなく排日運動は小規模なものに留まりました。

 蔣介石による北伐が始まると各地の領事館は居留民の引揚げを命令します。これが重慶における最初の引揚げとなるのですが、居留民は引揚げの必要性を感じていませんでした。宮阪九郎は四川は地理的に隔絶されており上中支那との交渉が遅いこと、軍事面に於いても6大軍閥が均衡しており一種の独立国化していること、そして6大軍閥は全て共産党排除で国民党側に付いたため重慶は平和であることからなぜ引揚げが必要なのか疑問に思っていました。地盤を放棄して引揚げてしまうと苦労して切り開いた商圏を英商や支那商に奪われる恐れがありました。そのため重慶・漢口・南京など長江沿岸からの引揚げ者は中支那避難民連合会を結成し、無担保もしくは低利での貸出を行う金融機関の設立を願い出るなど政府からの支援を仰ぎました。これを受けて政府は重慶に関しては10万円の貸付を決定します。

 重慶の日本人は連帯責任を負う債務者団を組織し、政府より債務者団に対して10万円の貸出を受けました。次に債務者団は重慶日本人組合という金融機関を設立して10万円全額を預け入れます。重慶日本人組合は債務者団各戸に割り当てられた半額を各戸に貸出、残り5万円に関しては開源莊という銭莊に預け入れ運用することにしました。開源莊は日本人組合に対して年10%の利息と年100万円の短期貸出の責務を負う契約であったため、開源莊により資金を運用するのは合理的と思われます。しかし開源莊の株式は宮阪が20%、宮阪の中国人盟友である游という人物が40%を持っており、実質的に宮阪が資金を自由に使用できる金融機関となりました。

 当初はうまく回っていた開源莊ですが、開源莊より貸出を受けていた三重公司が破綻の危機に陥ると開源莊の游は三重公司の債務を日本人組合からの預り金より控除すると言い出しました。そうなると日本人組合の資金が減少することになり、日本人債務者団は連帯債務を負うことになります。控除するしないの問題が解決する前に三重公司が破綻したことにより、開源莊より融資を受けているのは宮阪系企業のみとなったため、日本人組合は開源莊より資金を引き上げたいと思うようになります。ところが開源莊が日本人組合に資金を返還するためには、宮阪系企業より融資資金を引き上げなければ資金が融通出来ず、資金を引き上げられると宮阪系企業は倒産し、宮阪系企業が倒産すると連帯責任を追っている重慶日本人経済は甚大な影響を受けるという地獄のような状況となってしまいました。この状況下で宮阪派以外の組合員は自分の借受金を返済したら組合を脱退したいと申し出て重慶の日本人は宮阪派とそれ以外で二分されました。

 開源莊の問題が解決してないのに更に問題が発生します。三井物産漢口支店が破綻した三重公司の後藤を通して重慶市場で白豚毛を購入し、租界近くの後藤の倉庫に運び込んだのです。倉庫に白豚毛が保管されていることを知った三重公司の債権者は白豚毛は三重公司の所有物であるとして日本領事館に差押を願い出ました。これに対し日本領事館は手形を確認し三井に権利があるとして差押を拒否し、重慶市長を通して債権者に通達しました。いよいよ生活が厳しくなり倉庫も解約せざるを得なくなったため、後藤は領事館に白豚毛の保管を申し出ます。領事館より指示を受けた租界派出所勤務巡査は運搬の妨害を避けるため深夜に運び出そうとしましたが債権者に見つかり白豚毛は押収され、巡査も連行されました。結局白豚毛を元の倉庫に戻すことで巡査も解放されましたが、この問題が初めての重慶発の排日に繋がります。日本側の強引なやり方に諸新聞は「日本警察官越界盗貨」と書きたて中国側官憲は領事に対し侮蔑的態度を取り軽視するようになりました。中国人と多くの共同事業を行っていた宮阪も領事や後藤を強烈に批判します。その後、三井は白豚毛を放棄する代わりに中国側の三井と三重は同一であるため三井が三重の債務を引き受けるべきとの主張は認めない等の条件で1931年1月22日なんとか解決します。

完全引き揚げそして接収

 豚毛問題が解決した同年9月には満州事変が勃発、10月になると排日旋風が吹き荒れ日本人は再度引揚げざるを得なくなりました。日本人は翌年まで重慶に戻れずその間に既に商取引は中国人同士で行われるようになっており、また工場の機器も長期休業により劣化してしまいました。なんとか復帰した者も以前のように商売することは出来ず細々とした生活を続けていましたが1937年に盧溝橋事件が全土に拡大するとまたしても引揚げざるを得なくなり、ついに中国側により接収され租界は30数年の幕を閉じました。

汪兆銘政権への租界返還

 重慶租界は蔣介石政権に接収されましたが、日本は南京に成立した汪兆銘政権を正当なる中華民国としていたため租界返還交渉も汪兆銘政権に対して行いました。1943年1月9日の汪兆銘政権の英米への宣戦布告「戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」と共に「租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」を結び汪兆銘政権への租界返還が決定、同協定に基づき3月14日「専管租界還付実施に関する細目取極」を結び、3月31日付で返還されました。