重慶の歴史

日中戦争時の重慶(重慶国民政府)

国民党旗

日中戦争時、日本軍は快進撃を続け武漢まではあっさりと落とします。しかし蒋介石は更に奥地、重慶に首都を移し徹底抗戦します。中華民国では清が散々沿岸部を列強に荒らされたのを見ていたため、初代孫文の頃から副都や臨時首都の構想がありました。

年表

  • 1932年:国民党第四次二中全会で「西安を副都、洛陽を行都とする」案が提出される
  • 1933年:重慶の軍閥・劉湘が四川を統一
  • 1935年:蒋介石が四川を視察し「四川こそ首都にふさわしい」と宣言
  • 1936年:西安事件により第二次国共合作
  • 1937年:国民政府が重慶で業務開始
  • 1938年:蒋介石が重慶に移る
  • 1946年:国民政府が南京へ戻る
  • 1949年:蒋介石、再度重慶で抗戦

臨時首都としての重慶

中華民国の臨時首都に躍り出た重慶には政府機関・金融機関・軍需工場などが沿岸部から移転してきます。この時に両路口周辺まで市街地が拡大、郊外の沙坪壩・楊家坪まで幹線道路が引かれました。

国民政府跡

国民政府の建物で史跡として残されている物はほぼ皆無です。現在は病院となっていたり取り壊されて市政府が建てられています。また蒋介石は重慶に4カ所官邸を持っていましたが開放されているのは日本軍による爆撃を避けるための疎開先南山の官邸のみです。

南山蒋介石官邸

各国大使館跡

国民政府の重慶移転に伴い最初にソ連が大使館を移します。当然国民政府側も歓迎し一等地を用意、規模でも最大となります。大使館は新市街地となった両路口周辺に置かれることが多く国際村と呼ばれます。また、現在の両路口から李子壩あたりにかけての嘉陵賓館にもチリ・メキシコ・イランなど多くの大使館・公使館が設置されました。残念ながら嘉陵賓館は取り壊され跡形もありません。

ソ連大使館

ソ連に比べると見劣りする米国大使館。「歴史的価値から再建された」とされているが再建されたものが歴史的価値があるのか疑問です。余談ですが重慶は「歴史的価値から再建された」をよくやります。四川軍閥劉湘公邸に至っては移転・再建にも関わらず文化遺産に登録されています。

米国大使館

八路軍重慶事務所跡

国共合作により国民革命軍八路軍となった中共紅軍も重慶に事務所を構えます。八路軍は国民革命軍なので合法組織ですが、政治面では中共中央南方局が八路軍を利用して活動します。中共南方局というのは主に長江以南を統括する中共中央の組織です。周恩来は南方局書記として重慶に赴任し8年を過ごします。周恩来が滞在していた周公館は左右を軍統・戴笠公邸、国民党警察局に囲まれ、更に借り受けた建物内2階は国民党員が使用しているという過酷な環境。周公館に出入りする人は全てチェックされていたので周恩来は深夜に密談を行います。この時の習慣は中華人民共和国成立後、北京でも続けられ面会時間は夜中を指定する事が多かったです。

三方を国民党に囲まれ北側は嘉陵江という正に四面楚歌

八路軍は饒国模により提供された紅岩村に事務所を構えました。こちらの事務所上層階は中共中央南方局が使用していたため、入り口には非常を知らせるベルが置かれておりペダルを踏むと上層階に伝わり避難する仕組みとなっていました。紅岩というと由来は中共から来ているのかと思いますが土の種類です。

中共中央南方局及び八路軍重慶事務所

金融機関

中央・中国・交通・農民の四大銀行をはじめ中央信託局なども上海から移転し小什字周辺は金融街となりました。現在の小什字は衣服の問屋街となっておりとてもカオスな街です。川康銀行(現中国郵政)2階金庫には故宮から持ち込まれたお宝が保管、空襲を耐え抜きました。

旧川康銀行

軍需工場

沿岸部の軍需工場も移転してきますが、元の工場名を隠すため合併され、名称も番号に改名されます。漢陽兵工廠は国民政府兵工署第一工廠となり世界初の地下軍需工場となります。現在では私営の博物館としてオープン。

兵工署第一工廠(重慶川建博物館)

国民政府下の重慶地図

臨時首都時の地図

重慶爆撃

重慶爆撃については以前書いてますのでそちらをご覧ください。

国共内戦

日中戦争終結直後の蒋介石・毛沢東の重慶直接会談による和平交渉もいつの間にか破棄され国共内戦に突入します。日中戦争後、国民政府は南京に戻りますが1949年中共により南京が攻略されると蒋介石は広州を経由して再度重慶で抗戦を訴えます。しかし対日抗戦の際のような民衆の支持は得られず11月30日成都へ逃れ更に2週間後には台湾に逃れることになります。

白公館・渣滓洞

国民政府は11月30日の直前27日に捕らえていた中共党員を歌楽山の白公館・渣滓洞で300名以上虐殺します。白公館には10月1日の中華人民共和国建国を知った中共党員が想像で作成した五星紅旗が展示されています。日本では無名の歌楽山・白公館ですが同年9月6日に西安事件の楊虎城も殺害されていることもあり中国では誰もが知っています。

我们也有一面五星红旗
西安事件中共を延安まで追い詰めた蒋介石は西安に視察に行くが対日戦線より中共討伐を優先する蒋介石に不満を持っていた張学良・楊虎城により監禁される。蒋介石は中共殲滅まであと一歩でのところで断念せざるを得なかった。この事件により第二次国共合作となるが蒋介石・張学良・事件の解決を仲介した周恩来、誰一人この事件について語らなかったため詳細不明。

楊虎城はもちろん烈士として扱われている

1949年11月30日重慶解放

以上の歴史から重慶が中華人民共和国に組み込まれたのは建国後の11月30日です。